集中管理団体とは

著作者である個人が、著作物を利用したいと希望する者との間で、その利用条件について決定し、ライセンス契約を締結し、利用料を徴収することは、大変な手間ですし、非効率です。

著作権集中管理団体は、著作権者から著作権を信託譲渡してもらったり、利用許諾することを受託して、著作権者に代わって、著作権の利用許諾をしたり、著作権料を徴収する団体です。著作権集中管理団体としては、日本音楽著作権協会(略称「JASRAC」)などが有名です。

日本においては、現在は、著作権管理事業法(平成12年(2000年)法律131号)によって著作権集中管理団体が規律されています。
以前は、昭和14年(1939年)に制定された著作権に関する仲介業務に関する法律(昭和14年法律67号)(「仲介業務法」)によって規律されていましたが、2000年の著作権管理事業法により廃止され、2001年10月1日から著作権管理事業法が施行されています。

最初の著作権集中管理団体は、セビリアの理髪師やフィガロの結婚の作者であるボーマルシェが、1777年、劇作家の著作者団体の創設を提唱したことに遡ります。ボーマルシェの主導により創設された劇作家の団体が、1829年、フランスの劇作家作曲家協会(SACD:la Société des Auteurs et Compositeurs Dramatiques)となり、今も存続しています。

ボーマルシェが劇作家の著作者団体を設立した理由は、利用者との対等な交渉のためでした。当時、劇作家の作品がいくらヒットして、上演されても劇作家への収入につながらず、利用者である劇団しか利益を享受しませんでした。劇作家は、劇団に上演してもらわないと自分の作品が世にでないので、劇団に対してどうしても弱い立場にありました。そこで、劇作家で団結して劇団に対等な立場で著作権を主張したわけです。

その後、著作権管理団体が定着していった理由には、管理を他人に委ねれば、著作者はより創作活動に専念でき、生産性が高まるという利点があることも挙げられると思います。

これに対し、日本においては、著作権集中管理団体ができたきっかけは、特殊な経緯によります。
1931年(昭和6年)、ドイツ人ウィルヘルム・プラーゲが、ヨーロッパの著作権管理団体から委託を受け、放送局などに対して著作権使用料の請求を始め、1937年(昭和12年)には、プラーゲは著作権管理団体(大日本音楽作家出版社協会)を設立しました。
プラーゲの活動は、「プラーゲ旋風」と呼ばれ、日本のユーザーは、プラーゲの著作権利用料の要求との折り合いがつかなかったため、暫くの間、楽曲の使用ができない事態に陥りました。仲介業務法の目的の一つには、プラーゲとその団体の締め出しにあったといわれています。
仲介業務法は著作権管理団体の設立を許可制とし、プラーゲの設立した著作権管理団体は許可されず、プラーゲは日本からの撤退を余儀なくされました。

かつて、著作権集中管理団体は、小説につき日本文芸著作権保護同盟、脚本につき日本脚本家連盟、日本シナリオ作家協会、音楽につき日本音楽著作権協会の4団体しかありませんでした。平成28年3月の時点では、29の団体が著作権管理事業者として登録されています。